説教·マタイ 28:18-20·2026年10月7日

全ての権威を持つ主の派遣 — マタイ 28:18-20

聖霊降臨後 · マタイ 28:18-20 · 今週の主日は聖霊降臨後です。マタイ 28:18-20の本文で講壇に立つ方のために、本文選択から完成までSermonSageで作成した説教をそのまま掲載します。

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マタイ 28:18-20

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全ての権威を持つ主の派遣

題: 全ての権威を持つ主の派遣 主題: 復活された主の権威に基づき、全ての民を弟子とする使命に生きる

序論

窓の外に広がる世界は、時に冷たく、私たちを圧倒します。日々の通勤電車で肩を寄せ合う人々の疲れ切った表情、職場で求められる厳しい数字の達成、あるいは家庭の介護や将来への言いようのない不安の中で、私たちはしばしば「力のない自分」を感じてはいないでしょうか。特に、この日本という社会において、信仰を守り、キリストに従う道は、周囲の大多数とは異なる流れを歩む孤独を伴うことがあります。しかし、今日私たちが開いたマタイによる福音書の最後の頁は、そのような私たちの歩みを、全く異なる光の中に置き直します。 復活された主イエス・キリストは、弟子たちを、そして今日ここに集う私たちを、ガリラヤの山へと招かれました。エルサレムの悲劇的な十字架の場所ではなく、主が宣教の第一歩を記されたあのガリラヤです。そこは、主が初めて弟子たちを呼び、共に食卓を囲み、神の国の到来を告げられた場所でした。主は、私たちの歩みの原点に再び立ち戻ることを求めておられます。今日、この箇所から、私たちは復活の主が宣言された「権威」と、それが私たちに与える「使命」について深く黙想したいと思います。 マタイによる福音書は、最初から最後まで、イエス様がどのような方であるかを執拗なまでに追い求めてきました。王として生まれ、民を救う方として示された主が、今、死を打ち破り、天と地を統べる方として弟子たちの前に立っておられます。この出来事は、単なる過去の物語ではありません。今、ここで私たちの人生を導こうとされている主の生きた声なのです。私たちの日常がどれほど色あせて見えようとも、主は今も変わることなく、その全能の権威をもって私たちに語りかけておられます。 この箇所は、マタイによる福音書の結びに位置し、これまでの全ての教えと奇跡の集大成です。十字架の苦しみと死を経て、復活という劇的な勝利を得た主が、弟子たちに最後に託された言葉。それは、弟子たちの個人的な達成を期待するものではなく、主ご自身の権威に根ざした、圧倒的な希望の約束でした。私たちは、この主の言葉を聞くとき、ただの命令としてではなく、私たちの魂の奥底を揺り動かす、再創造の響きとして受け止める必要があります。さあ、共にその御声に耳を澄ませてまいりましょう。

本論

第1点。 天と地の一切の権威を与えられたイエス

主はまず、ご自身の権威を明確に宣言されました。「天と地の一切の権威が、わたしに与えられている」。ここで主が用いた「権威(ἐξουσία、エクスーシア、権威・権利)」という言葉は、単なる力ではありません。それは、法的な支配権であり、正当な王としての統治を意味します。かつて主は、荒野の誘惑において、悪魔から地上の国の栄華を提示され、それを退けられました。しかし今、十字架と復活という従順の道を経て、主は神から正式に天と地の全てを支配する権限を授けられました。 この言葉は、当時の弟子たちにとっても、そして今日の私たちにとっても、衝撃的な宣言でした。弟子たちは、復活の主を見て礼拝しましたが、なおも「疑う者もいた」と記されています。この疑いは、主が本当に死に打ち勝ったのか、あるいは、これから自分たちがどのようにして生きていけばよいのかという、現実的な恐怖からくるものでしょう。しかし、主は彼らの疑いを咎めるのではなく、まずご自身の「権威」を提示することで、彼らの視点を変えようとされました。私たちの信仰が揺らぐとき、それは決まって、私たちの視界が「自分自身の能力」や「この世の現実」の中に閉じ込められている時です。 主の権威は、天のみならず「地」にも及んでいます。これは、私たちが生きるこの職場、この家庭、この地域社会の隅々にまで、キリストの支配が届いているという宣言です。私たちが直面する困難や、理不尽な人間関係、経済的な不安も、主の権威の外側にあるのではありません。主はそれら全てを包括する王として、今も生きておられます。主の権威は、私たちを支配するためのものではなく、私たちを守り、導き、真の平安へと招くためのものです。 例えば、激務の中で心身を削り、信仰の火が消えそうになっている信徒が、この箇所に出会ったと想像してみてください。「天と地の全てが主の権威の下にあるのなら、この過酷な労働環境も、主が許し、かつ支配されている領域ではないか」と気づくのです。その瞬間、その人の心から、状況を自力でコントロールしなければならないという強迫観念が消え去るかもしれません。主が支配者であるならば、私たちは結果に責任を負う必要はなく、ただその権威に従って忠実であるだけでよいのです。この主の権威こそが、私たちがこの世で「少数者」として、しかし確信をもって生きるための唯一の根拠となります。 [1] 主の権威は、私たちの静かなる拠り所であると同時に、決して立ち止まることを許さない「動的な力」でもあります。この権威は、天においてのみ完成された遠い遠い出来事ではありません。今、ここで、私たちの生活の細部にまで浸透している現実の支配です。もし私たちが、職場の理不尽な要求や、先が見えない将来への不安に押しつぶされそうになっているのなら、その場所こそが、主の「権威」が試される最前線なのです。 私たちは往々にして、主の権威を「自分の願いを叶えるための手段」として捉えがちです。しかし、主が宣言された権威は、私たちを甘やかすためのものではなく、私たちをこの世の奴隷状態から解放し、真の「神の民」として再編成するためのものです。かつて、荒野の試練の中で主が悪魔を退けられたのは、神の権威こそが唯一の正義であることを身をもって示されたからでした。同じように、私たちもこの世という荒野において、自分の力で生きようとするプライドを捨て、主の権威に身を委ねる時、初めて真の平安という名の「征服」を経験するのです。

第2点。 全ての民を弟子とするための派遣

主は、この広大な権威の宣言に続けて、弟子たちを「派遣」されます。「だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」。ここでの「行って(πορεύω、ポリュオー、行く・進む)」という動詞は、ただ単に物理的に場所を移動することを指すのではありません。それは、主が示された新しい生き方の方向性そのものです。主は「エルサレムに留まって守りを固めよ」とは言われませんでした。むしろ、主が支配する「天と地の全て」へと、外へ向かって出ていくことを命じられました。 この命令の核心は、「弟子にする(μαθητεύω、マテュテュオー、弟子とする)」という言葉にあります。これは、単にキリスト教の教義を教え込むことではありません。主イエスご自身が歩まれた生き方、その愛と従順の道を、共に歩む仲間を増やすことです。当時のユダヤ社会において、イエス様を信じることは、民族的なアイデンティティや伝統との衝突を意味しました。しかし主は、その壁を突き破り、「すべての民(ἔθνος、エトノス、異邦人・国民・民族)」を対象にするよう命じられました。神の救いは、もはや特定の血筋や歴史を共有する者だけの特権ではないのです。 では、具体的にどのように弟子とするのでしょうか。主はここで二つの手段を挙げられます。第一は「洗礼を授けること」であり、第二は「教えること」です。洗礼(βαπτίζω、バプティゾー、バプテスマを授ける)は、自らの古い生き方を葬り、キリストの死と復活にあずかる儀式です。それは「父と子と聖霊の名において」行われます。この三位一体の名において洗礼を受けることは、その人が神の所有となり、三位一体の神の豊かな交わりの中に招き入れられることを意味します。 私たちは、しばしば伝道を「自分たちの力で説得し、入信させること」だと勘違いします。しかし、主が命じられたのは「弟子にする」ことであり、そのプロセスは洗礼という神の恵みの器を媒介としています。私たちが人を変えるのではありません。神がその人の心を変え、神の家族へと招き入れてくださるのです。私たちがなすべきことは、ただ主の権威を信じ、その派遣の命令に従って、隣人との関係の中に主の愛を具体的に表すことです。それは、職場で誠実に働くことかもしれませんし、あるいは、誰かの孤独な声に耳を傾けることかもしれません。そうした日々のささやかな歩みこそが、弟子をつくるための「行って」という歩みなのです。 [2] さらに、主が命じられた「すべて教え、守らせる」という言葉は、キリスト者の歩みが一度限りの決断で終わるものではないことを教えています。教える対象は、単なる知識の蓄積ではなく、「主が命じられたすべてのこと」を生涯をかけて学び、生活の中に適用し続けるプロセスです。 現代の私たちは、しばしば信仰を「個人的な内面の安らぎ」や「日曜日の礼拝」の中に限定しがちです。しかし、主が求めておられるのは、家庭の食卓や、職場の人間関係、そして日々直面する厳しい現実という「地の果て」において、主の教えを「守り(τηρέω、テレオー、守る・保つ)」続ける信仰の誠実さです。この「守る」という言葉は、単に禁欲的にルールを遵守することではなく、大切な宝物を守るように、主の御言葉を自らの心にしっかりと定着させることを意味します。 私たちがこの使命を果たす際、忘れてはならないのは、これが私たちの「個人的な成果」ではないという事実です。弟子を育てるのは私たちの説得術やカリスマではなく、生きておられる主ご自身の働きです。私たちが主の言葉に根ざし、その教えを実生活で体現しようともがく時、聖霊がその歩みに伴い、真の変革を起こしてくださるのです。

第3点。 世の終わりまで、いつも共にいるという約束

主イエスは、広大な使命を託した弟子たちに、最後に最も力強い約束を贈られました。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。この約束は、私たちが孤独な戦いの中にいるのではないことを保証する、勝利の宣言です。ここで「共にいる」と訳された言葉は、単なる物理的な同席を意味するのではなく、主が私たちの人生の全領域に深く介入し、その支配の力をもって支え続けることを意味します。「いつも(πᾶς, パス, 全ての・あらゆる)」という言葉が「日」に掛かっていることからも分かるように、主の臨在は例外なく、一瞬たりとも途切れることはありません。 マタイによる福音書の冒頭、1章23節において、主は「インマヌエル」としてこの世に来られました。その福音書が、この最後の「共にいる」という約束で締めくくられることは、マタイがいかにキリストの臨在を重視していたかを物語っています。インマヌエルとは「神が我らと共にいる」という驚くべき神秘です。弟子たちは、主が天に上げられた後、物理的な姿を見失うことになりますが、この約束によって、彼らは決して「一人ではない」という確信の中に生きることとなりました。今日の私たちも同じです。職場の理不尽な人間関係や、将来への不安、あるいは信仰を表明しにくい社会状況の中で、私たちはしばしば「誰にも理解されていない」という孤独に苛まれます。しかし、主のこの約束は、私たちの痛みを全てご存知の方が、今もすぐそばに寄り添っておられることを告げているのです。 主が「世の終わりまで」と言われたとき、それは単に時間の経過を意味するのではなく、「この時代の終結(συντέλεια, スンテレイア, 完了・終結)」を指しています。つまり、歴史の完成に至るまで、主の統治は揺るぐことなく継続するということです。私たちは、主が天に帰られたことで、地上での支配を放棄されたかのように錯覚しがちです。しかし、そうではありません。主は、復活された権威をもって、今も歴史のハンドルを握っておられます。この世がどれほど激しく動揺しようとも、主が共におられる限り、私たちの歩みは最終的な勝利という目的地から逸れることはありません。 [3] ある高齢の信徒が、長年連れ添った配偶者を亡くし、静まり返った家の中で孤独の淵に立たされた時、この箇所を繰り返し読みました。「世の終わりまで、いつも」。彼女は、その言葉が単なる慰めではなく、今も主がその部屋の空気に満ちておられるという「事実」であることを悟りました。それまでの彼女は、主を「教会の外にはいない方」として捉えていたのかもしれません。しかし、日常の最も暗い場所でこそ、主の臨在が最も輝くことを知ったのです。この確信こそが、私たちを単なる「信者」から、困難を突き抜けて歩む「宣教者」へと変える力となります。 私たちは、しばしば自分の「弱さ」を理由に、主の使命から逃げようとします。「自分には伝道する力がない」「職場での証しはあまりにハードルが高い」と。しかし、主がここで求められたのは、私たちの卓越した能力や説得力ではありません。ただ「主が共におられる」ことを信じ、その平安を携えて日常を生きることです。主が共におられるという事実は、私たちが何をするか以上に、私たちがどのような姿勢で主と向き合うかを決定づけます。私たちが主の臨在に敏感になる時、日々の雑多な生活は「主と共に歩む冒険」へと姿を変えるのです。 [4]

結論

復活された主イエス・キリストは、天と地の一切の権威をその手に握り、今も生きて働いておられます。私たちは、この圧倒的な王の権威のもとで、その愛を証しし、全ての民を弟子とする使命を託されました。この使命は、私たちの力で行う重荷ではありません。むしろ、主の権威が私たちを動かし、主の臨在が私たちを支え、主の約束が私たちを導く、恵みの歩みです。 私たちは、この日本社会という、時に孤独を感じやすい場所で、主の民として生きています。しかし、覚えてください。皆さんの職場での誠実な振る舞い、家庭での忍耐深い祈り、そして苦境の中にあっても失わない希望は、すべて主の支配の証しです。主は、私たちが何か偉大な成果を出すことを急かされるのではなく、今、そこで、主と共に歩むことを求めておられます。 今週、私たちはそれぞれの現場に戻ります。過酷な業務、人間関係の複雑さ、あるいは将来への漠然とした不安が待ち受けているかもしれません。その時こそ、このマタイによる福音書の最後の言葉を思い出してください。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。主は、私たちの歩みの先頭に立ち、同時にすぐ傍らに立っておられます。 今週、私たちがそれぞれの場所で主の愛を一つでも形にするために、小さな一歩を踏み出しましょう。例えば、職場の同僚に心からの挨拶を交わすこと、あるいは孤独を感じている誰かのために祈りを捧げること。そのような一歩一歩が、主の権威をこの地に具体化する「弟子としての歩み」です。 慈しみ深い天の父なる神様、私たちは自分の弱さを抱え、時にこの世の荒波の中で動揺いたします。しかし、復活された主が「天と地の一切の権威」をもって私たちを支え、「世の終わりまで共にいる」と約束してくださったことを信じます。主イエス・キリストの十字架の贖いによって、私たちは罪の奴隷から解放され、今や主の弟子として派遣される特権をいただきました。私たちがこの一週間、主の臨在を確信し、与えられた場所であなたの光を反映することができますように。私たちの歩みを通して、主の救いの御業が人々に伝わりますように。私たちの主、イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。


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参考文献

本説教が根拠とした注解です。本文中の[番号]が下記の項目を指します。

  • [1] カルヴァン注解 / Calvin's Commentary — マタイ 28:18
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    And Jesus approached and spoke to them. His approach unquestionably removed all hesitation. Before relating that the office of teaching was committed to the disciples, Matthew says that Christ began by speaking of his power; and not without reason. For no ordinary authority would here have been enough, but sovereign and truly divine government ought to be possessed by him who commands them to promise eternal life in his ham to reduce the whole world under his sway, and to publish a doctrine which subdues all pride, and lays prostrate the whole of the human race. And by this preface Christ not only encouraged the Apostles to full confidence in the discharge of their office, but confirmed the faith of his gospel in all ages. Never, certainly, would the Apostles have had sufficient confidence to undertake so arduous an office, if they had not known that their Protector sitteth in heaven, and that the highest authority is given to him; for without such a support it would have been impossible for them to make any progress. But when they learn that he to whom they owe their services is the Governor of heaven and earth, this alone was abundantly sufficient for preparing them to rise super
    Calvin's Commentary · 장 칼뱅 †1564 · マタイ 28:18
  • [2] マシュー・ヘンリー注解 / Matthew Henry's Commentary — マタイ 28:19
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    Verses 16-20 This evangelist passes over several other appearances of Christ, recorded by Luke and John, and hastens to this, which was of all other the most solemn, as being promised and appointed again and again before his death, and after his resurrection. Observe, I. How the disciples attended his appearance, according to the appointment (v. 16); They went into Galilee, a long journey to go for one sight of Christ, but it was worth while. They had seen him several times at Jerusalem, and yet they went into Galilee, to see him there. 1. Because he appointed them to do so. Though it seemed a needless thing to go into Galilee, to see him whom they might see at Jerusalem, especially when they must so soon come back again to Jerusalem, before his ascension, yet they had learned to obey Christ’s commands and not object against them. Note, Those who would maintain communion with Christ, must attend him there where he has appointed. Those who have met him in one ordinance, must attend him in another; those who have seen him at Jerusalem, must go to Galilee. 2. Because that was to be a public and general meeting. They had seen him themselves, and conversed with him in private, but that
    Matthew Henry's Commentary · 매튜 헨리 †1714 · マタイ 28:16–20
  • [3] ケンブリッジ聖書注解 / Cambridge Bible — マタイ 28:20
    原文を見る · パブリックドメイン
    therefore] i. e. because Christ hath all power in heaven and earth. The word however is omitted in the leading MSS. teach] Properly, make disciples of. The same mistranslation occurs Acts 14:21, “having taught,” see ch. Matthew 13:52, Matthew 27:57, where the same word is used. Teaching, Matthew 28:20, = “instructing.” “Make disciples of all nations by baptism and by instruction.” in the name] Rather, into the name. Jewish proselytes were baptized into the name of the Father; Jesus adds the names of the Son and of the Holy Ghost. In the instances of baptism recorded in the Acts 2:38; Acts 8:16; Acts 10:48; Acts 19:5, the name of Jesus Christ (or the Lord Jesus) alone occurs in the baptismal formula, but the promise of the Holy Ghost is given (Acts 2:38), or the gift of the Holy Ghost follows the rite (Matthew 8:17, Matthew 19:6), or precedes it (Acts 10:44; Acts 10:47). 20. I am with you alway] The Lord Jesus had already taught His disciples during the forty days how He could be present with them and yet be unseen by them. They could then the more easily believe this promise. the end of the world] See note ch. Matthew 13:39. Amen] Omitted in the leading MSS. The last words of St Ma
    Cambridge Bible · 존 페로운 †1904 · マタイ 28:19–20
  • [4] 説教者聖書注解 / The Sermon Bible — マタイ 28:20
    原文を見る · パブリックドメイン
    References: Matthew 28:20.—H. J. Wilmot-Buxton, Waterside Mission Sermons, No. 15; J. C. Hare, The Victory of Faith, p. 315; Christian World Pulpit, vol. vi., pp. 95, 173; J. T. Stannard, Ibid., vol. xiv., p. 216; C. M. Short, Ibid., vol. xxiv., p. 389; Spurgeon, Evening by Evening, p. 363; Ibid., Morning by Morning, p. 132; Preacher's Monthly, vol. i., p. 119; Clergyman's Magazine, vol. ii., p. 88; New Outlines on the New Testament, p. 29; Homiletic Magazine, vol. xii., p. 183. Matthew 28:16-20(with 1 Corinthians 15:6) The question meets us today, as we think of the narrative of the text, How do we stand related to that assembly on the Galilean mountain, and to that last command of our adored Lord? The answer which I trust we shall all feel disposed to give is this, that we are related to that assembly just as though we had formed part of it, to that last command as though we had heard it in audible words from the lips of our Lord. That we may be confirmed in this conviction let us ask and answer some further questions. I. Is the world's need any less now than it was then? Substantially, it is the same. It was great and urgent then; it is great and urgent now. "Go ye, therefore,"
    The Sermon Bible · 윌리엄 로버트슨 니콜 †1923 · マタイ 28:16–20
  • タグ聖霊降臨後
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